趣味は通勤?
私の趣味は何だろうか?
読書は好きだけど、趣味と言えるだろうか?
普通に楽しいけど、そればっかり一日中するぐらいに夢中になっている訳ではない。
習慣の一部のようなもの。
ハッキリと趣味と言えるようなものがないのは我ながら何か物足りない。
人が聴いたらビックリするような趣味を持っている人に何かしら憧れる。
料理とか、釣りとか、小説書いているとか、登山とか、茶道、生け花、切手のコレクション、神社仏閣巡り、絵画、模型作り、マンドリン、トライアスロン、秘湯巡り、鉄道観察、昆虫採集とか・・・
実用的でなくて、かつ、マニアックな趣味を持つことに憧れる。
憧れるだけで、”よしやってみよう!”と思うものは考えども考えども出てこない。
素直な気持ちで顧みるに、自分にとって心地良い時間とは、30分ほどの読書、カフェ時間、散歩、食事・・・以上。
なんか「消費系」のモノばかりやな。
ま、趣味やから何でもいいのやけど。
ここでふと思った。
30分ほどの読書と散歩は、毎日の通勤のときの習慣ではないか。
朝、駅に向かうまでの25分の徒歩の時間は、清々しく気持ちが良い。
朝陽を浴びてのウォーキングはサイコー。
このときの気分は好きだ。
そして電車の中での読書時間も好きだ。
不思議なことに朝の電車の中での読書は、脳がシャキっとしていて実に集中できる。
いまから仕事に行くという適度な緊張感も手伝って、この時間がとても愛おしい。
25分という時間も私にはちょうど良い。
帰りの電車では漫画を読む(いま読んでいるのは『ブルー・ピリオド』)。
仕事を終えた後の適度な解放感の中で漫画を読む時間も、私にとってはかけがえのない大切な時間。
そして、駅から家までの徒歩は、オーディオブックを聴いている。
オーディオブックとウォーキングは実に相性が良い。
小説を聴いていると、アっという前に我が家に着く。
★★★
要は、「行きの通勤時間」と「帰りの通勤時間」は、『私』と『公』のクッションとしての役割を果たし、このクッションのときにする読書やウォーキングが私にとって、大切なひとときなのだ。
趣味(以上の)の時間と言えるかも知れない。
このことに気が付いたのは、コロナ禍の中で在宅勤務をするようになったとき。
最初は通勤時間から解放されるのが、とても嬉しく感じた。
その分、自分の時間、つまりは自分の趣味の時間を多く持つことが出来るぞっと。
。。。
でも違った。
私の性格なんだろうけど、「通勤」という目的があったから、ウォーキングも読書も漫画もオーディオブックも楽しむことが出来る。
集中できる。
そして癒される。
「通勤」という目的もなく、思う存分に散歩をしようなんて思わないし、思う存分に読書をしようとも思わない。
思う存分に朝から晩まで漫画を読もうとも思わないし、思う存分にオーディオブックを聴こうとも思わない。
それらは全て、通勤があるから、もっと言うと、「仕事前」または「仕事を終えた後」という適度な緊張感と解放感とセットになっているからこそ、愛おしく思えるのだ。
中学とか高校のとき、特にテレビを観るのが好きだった訳ではないけれど、試験勉強中の合間の休憩のときに見るテレビの時間がとても愛おしかった。
それに少し似ているかも知れない。
そう考えると、私はそんなに仕事熱心でもないし、仕事が特に面白いとも思わないけれど、仕事があって通勤出来るということは、私のような平凡な人間(マニアックな趣味がない人間)にとってとても大切なことだと言える。
感謝。
★★★
じゃ、「通勤」が発生しない週末は何をするのか?
「電車」が「カフェ」に変わって、そこで読書して、カフェの行きと帰りの散歩。
そしてブログかな。
多分、
インプット(読書)とアウトプット(ブログ)とそれらを繋げる思索の時間(散歩)をうまくバランスさせて・・・
とかあまり考えない方がいいんだろうな。
週末の時間の過ごし方は、またジックリと考えるとして、
「通勤」の時間が私にとっては大切な時間であるということに気付けたのは、収穫でした。