ダーウィンの進化論と優生学と格差問題
『遺伝子』(著者:シッダールタ・ムカジー)を読んでいる。
チャールズ・ダーウィンによると、「変異体」が数種類生まれると、環境に不利なものは絶滅し、環境に有利な変異体のみが生き残る。そして種を存続させていく。
環境変化が起こると、また環境に不利なものは絶滅し、変化後の環境に有利な変異体のみが種を存続させていく。
そのような変異体から変異体への変化のプロセスこそが「進化」。
「進化」というと、何か「優れているから生存競争のふるいにかけられても生き残った」というニュアンスがあるが、それは違う。
たまたま、その環境に適応できただけ。
強いものでも、賢いものでもない。
たまたま、その環境に適応していた変異体が残ったということ。
この「ダーウィンの進化論」が「遺伝子」を介して優生学に結び付き、人類は愚かな失敗をしたというのは歴史の事実である。
優生学は、劣った人間を「劣った遺伝子を保有するキャリアー」であるとみなす。
劣った人間を断絶させなければ、劣った遺伝子が引き継がれ、人類の反映を阻害する、と考える。
優生学というと、すぐに頭に浮かぶのは、ナチスによる民族浄化であるユダヤ人大虐殺である。
1920年代に、アメリカではさかんに「優性手術」が行われた。
精神障害があると認められた者は、遺伝子に欠陥があるとみなされ、次々と不妊手術が施された。
精神障害があるかどうかの判定も極めてエエ加減のテキトー。
貧困で教育が受けられず、その結果、「愚鈍」と判断された者も「優性手術」の対象となった。
格差問題の是正(教育や福祉など)に向かわず、「優性手術」に向かうとは・・・
当時のインテリ階級がこれを黙認または支持していたのが、また恐ろしい事実。
ナチスは更に狂気に進み、いわゆる「断種法」が施行した。
知的障害、統合失調症、てんかん、うつ病、全盲、聾唖などの障害を持つ者は、遺伝子に欠陥があるものとみなされ、「安楽死」の対象となった。
1933年から1943年にかけて、「断種法」により40万人が強制的な断種手術を受けさせられた(殺された)。
これが更にエスカレートし、劣った遺伝子を持つ民族として、ユダヤ人の断種が行われた。
もはや何でもアリの世界。めちゃくちゃ。
恐ろしいのはナチスの狂気だけではない。
多くの人間が、”病気の遺伝形質を持つ個人が有害な遺伝子を子孫へ広げないよう介入することをためらってはならない” 考えたということである。
遺伝子についての正しい知識がない、ということが問題なのではない。
(それはインテリに任せておけばいい)
弱者を作り出す社会、弱者を悪者(生贄)にすることで、自らの心の平静を保とうとする社会の雰囲気が怖い。
ナチスを指示した人たちとトランプを指示した人たちが重なる。
いずれも格差の底辺にいる人たち。
弱者である。
ある意味、自分よりも弱い生贄を求める人達も、格差問題の犠牲者である。
ここに格差問題の根深い闇がある。
鬱屈した社会はいとも簡単に「弱者に対する偏見や排除」の空気を作る。
もちろん、はけ口が「弱者」に向かうとは限らない。
既存のルールを支配している勝者(既得権益者)に向かう可能性もある。
つまり、革命か戦争
個人的にはこっちの可能性は小さいと思う。
勝者が圧倒的に強過ぎる。力を持ち過ぎている。
格差への対応策として一番現実的なのが、「富める勝者」に高率の課税を課して「富の再分配」を行うことだけど、先進国ではこれがことごとく失敗している。
ま、それだけ勝者が強い(政治家を握っている)ということなのだけど。
私が求めるのは「平和」。
革命も戦争も断固拒否。
もちろん、「弱いものイジメ」も断固拒否。
「教育とテクノロジーの可能性」と「個々人の良識」を信じつつ、学び続けつつ、ダメなものはダメとハッキリ抗議したい。
思考停止になって、何となく世の中の雰囲気に流されてしまうことがないようにしたい。
なぜなら私は社会主義者ではなかったから。
次にナチスが労働組合員を襲ったときも、私は声をあげなかった。
私は労働組合員ではなかったから。
その後ナチスがユダヤ人を襲ったときも、私は声をあげなかった。
私はユダヤ人ではなかったから。
それからナチスが私を襲ったとき、私のために声をあげる者はひとりも残っていなかった。(ドイツ人神学者 マルティン・ニーメラー)
食事と情報の腹八分
腹八分を心掛けている。
腹八分というと、”もう少し食べたいのにそこを我慢する”というイメージがあるが、そんなことはない。
それが習慣になると、あまり「我慢している」という気持ちはない。
それどころか、身体が軽くなるし(ダイエット効果もあるが、本当に体感として軽く感じる)、食事が美味しくなる。
私の場合もともと野菜嫌いだったが、腹八分を習慣化すると、野菜が美味しく感じるようになった。
身体が喜んでいるような気持ち。
最近思うのは、食事の腹八分と同様に大事なのが、情報の腹八分。
食べ物と同様、情報も溢れている。
ヘルシーな良い情報からジャンキーなウサン臭い情報までピンキリ。
理想論を言うと、食べ物と同様、情報も偏らないのが良いのだろう。
だけど、情報の全体像が見えない中で「偏りなく情報を採る」って難しいと思う。
だからと言って、強迫観念的にあらゆる情報をインプットしよう、というのも違うだろう。
そんなことをすると、消化不良に陥ってしまう。
情報のメタボに陥ると、好奇心が働かず、脳も働かなくなってしまう。
いわゆる「思考停止」状態。
結局、情報の腹八分を実行するには、情報の取捨選択が必要になってくる。
何を基準に取捨選択すれば良いのかは難しいが、一つの目安は自分の中にある「健全な好奇心」だと思う。
私の経験では、インプットに走り過ぎても(インプットが目的になってしまうと)好奇心は働かないし、インプットが皆無でも好奇心は動かない。
結局、自分にとって面白い情報を腹八分で摂取することで好奇心を育ち、好奇心が働くと、情報の感度が高まる。
情報の感度が高まると、情報の取捨選択が上手になる。
情報の取捨選択が上手になると、(自分にとって)面白い情報と出会う確率が高まる。
そうすると、好奇心がますます活性化する。
好奇心が活性化すると、いままで興味を感じなかった情報にも食指が動くようになる。
ちょうど野菜嫌いの私が、腹八分を習慣化することで、野菜の美味しさに目覚めたように。
逆説的だけど、好奇心が健全に働くと、情報の偏りは緩和される方向に作用する。
ということで、食事と情報の腹八分を実践し、食欲と知識欲(好奇心)を適度に満たして、身体の脳の健康(若返り)を促進しましょう、というお話でした。
21世紀はベイズの時代
21世紀の幕開けとなる2001年、マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏は「21世紀のマイクロソフトの基本戦略はベイズテクノロジーにある」と明言した。
ベイズ統計は、18世紀後半のスコットランドの長老派教会の牧師、トーマス・ベイズ氏が考案。
200年も前の一人の牧師の着想に端を発するが、長い間、異端とされてきた。
何故ならベイズ統計は、「主観的な確率」を扱うからである。
「厳密な科学に主観が入ってはいけない」と言うのである。
そりゃそうやわな。
我々が考える確率って普通、客観的なもの。
振ったさいころの目が3となる確率は1/6のように、誰が計算しても同じ結果になってもらわないと困る。
これは頻度主義というもので、この考え方に基づいてネイマン、ピアソン、フィッシャーらによって(統計学者の御三家)、伝統的統計学の理論を構築してきた。
ただ、私たちの社会で起きる事象は多種多様で複雑、必ずしもサイコロの目のように明確な出来事ばかりではなく、常に流動的に変化している。
こういう事象に、ベイズ統計は威力を発揮する。
特に、ベイズ統計は機械学習と相性が良く、主観的な確率が追加データによってドンドン更新され、更新される度に精度が向上していく(学習して賢くなっていく)。
ベイズの定理について
P(Y|X) = P(X|Y)*P(Y) / P(X)
Yは原因で、Xは結果( 時間の流れは、Y(原因)⇒X(結果) )
P(Y):原因がYである確率
P(X):結果がXである確率
P(Y|X)=結果がXという前提をつけたときに、原因がYである確率
これが、ベイズの定理の一つの特徴で、結果から原因確率を推定するという発想。
「結果」という情報を踏まえて、原因確率を推定するので、事後確率とも呼ばれる。
結果X⇒原因Yと、時間の流れに逆行しているため、逆確率とも呼ばれる。
P(X|Y):原因がYという条件を付けたときに結果がXとなる確率であり、条件付き確率または尤度(ゆうど)とも呼ばれる。
ベイズの定理のもう一つの特徴は右辺のP(Y)。
これはP(Y|X)と異なり、結果情報を踏まえる前の確率なので、事前確率と呼ばれる。
先程、ベイズ統計は主観確率を適用する点が異端であると言ったが、主観確率はこの事前確率に対して適用される。
主観確率を適用しているのにかかわらず、何故ベイズ統計は威力を発揮できるのか?
①最初は「適当に(主観的に)」事前確率を置いたとしても上記の算式にしたがって一度 事後確率が求まると、その「事後確率」を「事前確率」に置き換えていく(事前確率をアップデイトする)。
データ(結果)がどんどん増えるにつれて、事前確率のアップデイトが何度も繰り返されて精度が高まっていく(機械学習のアルゴリズムを適用できる)。
②事前確率についての知識が全くない訳ではない。
確率分布を適用すれば良い。正規分布、二項分布、ベータ分布、ガンマ分布など。
⇒マルコフ連鎖モンテカルロ法(MCMC法)。
ベイズ統計の適用例⇒迷惑メールの判定
結果データ(メールに含まれている言葉。例えば「投資指南」とか「完全無料」とか)に基づいて、原因確率(そのメールが迷惑メールである確率)を推定する。
つまり事後確率を推定するに際して、ベイズの定理が用いられる。
そして事後確率が(例えば)0.98以上であれば、そのメールは迷惑フォルダに格納される。
結果データが充実すればするほど(迷惑メールにありがちな言葉についての情報が増えれば増えるほど)、事後確率の精度が高まっていくのである。
ではまた、ごきげんよう
天才に生まれなくて良かった。
『天才の栄光と挫折』(文藝春秋:藤原正彦)の中で、フェルマーの最終定理を解いたアンドリュー・ワイズが取り上げられていた。
フェルマーの最終定理とは、3 以上の自然数 n について、
となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない
nが3以上というのがポイント。
n=2のときは、ピタゴラスの定理でおなじみ。
フェルマーとは、17世紀前半の法律家で、数学愛好家。
ディオファントス(時代は違うが、ユークリッドに匹敵する古代ギリシアの大数学者)による『算術』(ラテン語訳)を読み始めた彼は、その余白に解答を記載。
彼の死後、一つを除いて全て解明された。
最後に残ったその一つこそ「フェルマーの最終定理」(フェルマー予想とも呼ばれる)。
フェルマーは、「余はこの命題の真に驚くべき証明を発見したが、この余白はそれを書くには狭すぎる」という謎の言葉をそこに記した。
(ほんまかいな。負け惜しみちゃうん?)
その後、幾多の数学の天才がこの命題に挑んだが、謎は解けなった。
あの大天才のオイラーでさえも解けなかった。
300年以上、誰も解けなったこの大命題を解いたのがアンドリュー・ワイルズ。
幾多の天才に解けなかったこの大難問を何故、彼は解くことを出来たのか?
彼がこの命題と出会ったのは10歳のとき。図書館で。
この命題を知ったワイルズ少年は、
「自分に理解できる問題なのに歴史上の偉大な数学者たちが誰も解けないなんて。絶対にこの問題を解いてやろう」と思う。
この本を読んでいると、ワイルズはこの問題を解くために生まれてきたような気がする。
彼は数々の奇跡にも恵まれて、底の知れない大問題を解くのだが、その奇跡のゆえに、この大難問を解明することが彼の宿命だったように感じる。
第1に、大学院で、楕円曲線論と岩澤理論を勉強したこと。
ケンブリッジ大学の大学院で、本格的にフェルマー予想にとりかかろうとするのだが、指導教官から(フェルマー予想を解くという)「少年の夢」は捨て去るように諭される。
ワイルズのような天才が、(300年以上誰も解けなかった)世紀の大難問解明に才能を浪費するのはモッタイナイ、ということ。
そして彼は、フェルマー予想とは何の関係もない楕円曲線論と岩澤理論を勉強することになる。
ところがこれが後々「生きてくる」のだ。
第2に、谷山=志村予想が、ワイルズの目の前にポっと現われたこと。
つまり、ワイルズが楕円曲線論と岩澤理論を専攻して10年ほど経ったころ、「谷山=志村予想が正しければフェルマー予想も正しい」ということが、アメリカのリベットによって証明されたのだ。
これを知ったとき、ワイルズの腹は決まった。
「フェルマー予想」を解明するぞ。と
谷山=志村予想とは、「楕円曲線はモジュラーである」というもの。
(全然、分からん)
「楕円曲線という古い分野」と「モジュラー形式という古い分野」が密接に結ばれている、ということらしいが・・・
???
例えてみれば、富士山とエベレストの間に、実は虹のかけ橋がかかっている、というようなとんでもない予想であった。
しかも谷山=志村予想はワイルズがもっとも得意とする分野、楕円曲線論に属するもの。
ワイルズにとっては「奇跡」以外の何物でもない。
神学者の息子であるワイルズは、神の御加護さえ感じたのではないだろうか。
だからこそ彼は、手を出してはならないフェルマー予想、という難事業にとりかかったのである。
7年目にして、ワイルズはフェルマー予想を解明した・・・
ように思われた。
ケンブリッジのニュートン研究所でその成果を発表したのだが・・・
なんと、レフェリーによる査読段階で矛盾が発見される。
一つでも矛盾が発見されれば、いままで積み上げてきた理論が全て瓦解する。
これが数学の恐ろしいところ。
栄光と破滅が隣り合わせ。
それからが地獄である。
このままでは、世界中の笑いものになる。
さんざん世の中を騒がせて置いて、「やっぱり間違いでした」とあっては・・・
1年半ほどの地獄の苦闘の中、とうとうワイルズにある閃きが訪れる。
岩澤理論を使うことでうまくいくことを発見したのだ。
岩澤理論は、ワイルズが大学院時代に専攻していた分野で、もっとも得意とするところ。
とうとう彼はこの大難題を解明するのだ。
「この8年余り、フェルマー予想と家族のこと以外、何も考えませんでした」
よくもまあ8年間も難問と向かい合ったものだと思う。
その間ワイルズは殆ど、論文を書いていない。
つまり、天才が自分の持てる力を全てこの大難問の解明に懸けたのである。
これはスゴイ懸けである。
一歩間違えれば、数学者としての生命が終わることになるのだから。
しかし、この世紀の大難問の解明に
日本の数学者が3人も貢献しているのって、これまたスゴイな。
この本の著者(藤原氏、日本の数学者)も言っていたけど、天国と同時に地獄をも味わうのが天才の宿命であるらしい。
人間は誰も、栄光や挫折、成功や失敗、得意や失意、優越感や劣等感、につきまとわれる。そしてそれは自らの才能の無さのため、と思いがちである。否。天才こそがこのような両極を痛々しいほどに体験する人々である。凡人の数十倍もの振幅の荒波に翻弄され、苦悩し、苦悶している。
いやいや、天才に生まれて良かった。
間違えた。
天才に生まれなくて良かった。
「ゲームの理論」むっちゃ面白い!
ゲームの理論と言えばまず出てくるのが「囚人のジレンマ」
銀行強盗をしたあと、自分と共犯者が逮捕。別々の独房に入れられているとする。
以下のAかBのいずれかを選ばなくてはならない。
A)共犯者どうして「協力する」(黙秘と続ける)
B)「相方を裏切る」(密告して相方を警察に売る)
二人ともAを選択した場合、証拠不十分で無罪放免となり、銀行強盗で奪った金を山分け。50万ドルづつもらえる。
しかし一人が裏切って相手のことを密告し(B)、もう一人が沈黙を守れば(A)、密告者は釈放されて100万ドルを独り占めできる。
沈黙を守った方は単独犯として有罪判決を下され、10年の刑を受ける。
双方が相手のことを密告した場合(B)、2人とも有罪となり5年の刑を受ける。
この場合、相手が「協力」しようが、「裏切り」をしようが、自分は「裏切り」を選択した方が既に得策となる。
(相手が裏切った場合、自分も裏切った方が刑期が少なくても済む。相手が裏切らなかった場合、100万ドルを一人占めできる)
この場合、「裏切り」が均衡戦略となる。相手がとり得るすべての戦略に対して最良の対応となる。これは「支配戦略」と呼ばれる。
よし、戦略が明確になったぞ! という気持ちにはなれないですよね。
二人とも合理的に判断して「支配戦略」を採用(二人とも裏切る)すると、5年の刑を受けることになる。二人で「協力」していれば、無罪放免されかつ50万ドルを山分け出来るというのに・・・(もどかしい気持ち)
ここから得られる知見はこうである。
プレイヤー全員がそれぞれ自分の利益となるように合理的な行動を選択すると(支配戦略を採用すると)、均衡はプレイヤーにとって真に最良の結果にはならない、ということ。
アルゴリズム的ゲーム理論は、この知見をとりあげて定量化し、「無秩序の代償」という基準を生み出している。
それは、「協力した場合」と「各々が自分の利益を追求した場合(裏切る場合)」の各々の期待利益の比率である。
「囚人のジレンマ」は、この無秩序の代償が悲劇的なほど高くつくケース。
どうすればいいか?
そこで出てくるのが「メカニズムデザイン」である。
つまり、ゲームのルールを変えるっということ。
「どんなルールなら、相手がこちらの望む行動(二人で協力する)をしてくれるか」を問うのである。
そこで出番となるのが、ゴッドファーザーである。
ゴッドファーザーとは共犯者のボスである。
ボスが一言、こう言うのである。
「密告した奴は許さん!海に沈めるぞ」
つまり「密告する」という行動に制限を課すのである。
この「制限」が加わることによって共犯者は、自分の利益を追求した結果「協力する」を選択せざるを得なくなる。
この「メカニズムデザイン」の考え方は、宗教の役割を連想させますね。
殺人、姦通、盗みなどの反社会的行動に対する「制限」が、神の力によって課されることによって秩序が与えられる。。。(無秩序の代償を小さくする)
「囚人のジレンマ」の問題を解決する方法は、他にもありますよ。
分かります?
そう、「愛」ですね。
共犯者が互いに、相手に愛情をもっていれば(男女間の愛でもいいし、友情でもいい)・・・
自分の利益よりも、相手の利益を大事に考えていれば・・・
ゴッドファーザーがいなくても、2人して無罪放免、そして50万ドルづつ山分け出来ますね!(ゴッドファーザーに上納金をおさめなくてもいい)
「結婚」って「囚人のジレンマ」の二人が「協力」を選択したケースに似ているような気がします。(「共犯者」の関係を守り通す)
相方よりも好条件(収入とか容姿とか)の人が見つかったとしても、多くの人は相方を裏切らない(離婚しない)ですよね。
何故か?
収入とか容姿とかでは代替できない「かけがえのなさ」を相方に見出しているからだと思います。
つらい境遇に耐えることができ(病める時も貧しいときも)、愛する相手と運命を共にする覚悟があるということは、「信頼できる共犯者」になれるということ。
『アルゴリズム思考術』(早川書房:ブライアン・クリスヤン&トム・グリフィス)より
独学のコツ ~いかにして時間制約を克服するか~
何を思ったのか、私は45歳のときに経済学を学ぶために大学院に入学した。
仕事をしながらということもあり、どうやって勉強時間&研究時間を捻出
するか?
幸いにも、大学院の授業は土曜日にも受けることが出来たので、
理論的には、社会人が仕事をしながら、大学院に通うことは可能。
単位(11科目)を取得するための勉強時間(試験に合格しなければならない)に加えて、課題レポートや、ゼミでの発表資料、そして何よりも論文を書くために、相当な量の先行研究論文を読まなくてはならない(しかも英語)。
更に、私の場合、数学(線形代数、微分積分)の勉強に結構な時間を割く
必要があった。数学の理解がないと、計量経済学のテキストを読むことが
出来ず、計量経済学の理解が無ければ、実証分析系の論文を書くことは
不可能。
もちろん、大学院に入る前はそんなに勉強をすることがあるとは思っても
いなかった。
分かっていたら、大学院なんて行ってなかったと思う。
それが結果的に良かったのかも知れないけど。
「救い」は、勉強が面白かったこと。無茶苦茶、面白かったということ。
仕事をしながら(会社には、大学院に行くことは秘密にしていた)だったからだろうか。
大学院での時間は、とても新鮮だった。アカデミックな世界に入って、若い人に混じって、自分が興味あることを学ぶのは至福のひとときだった。
そして、いつの間にか「自分に合った勉強法」を見出していた。
以下、列挙。
①40分間勉強法
私には40分間というのが、無理なく集中できる時間であることが分かった。
何故それが分かったかと言うと、夏季特別集中講義を受けたときの経験から。
大学の授業は、1回あたり100分あある。
特別集中講義は、朝から晩まで1回100分の授業が5コマ、文字通り終日行われる。
そのときに講師が言ったのは、「人間の集中力はもって30~40分だから、40分おきに5分or10分の休憩を入れます」
これが良かった。見事にハマった。
その時間配分のおかげで私の集中力は一日中持続した。
その証拠に、講義の最後に行われた試験でも「秀」を取得できた。
それから毎朝、出勤前に40分間勉強することとした。
集中して40分取り組むと、思った以上のことが出来る。
しかも朝イチが良いのかも知れないけど、頭がスッキリしていて、サクサク読める。はかどる。
40分のはずが、熱中し過ぎてしまって、しばしば朝の会議に遅刻しそうになったこともあった。
②通勤時間を活用
通勤電車の中がまた、良く集中できた。
電車の中に乗っているのは25分だったけど、講義の復習や論文を読んだり。数学の問題を解いたり。使用した数学・統計学のテキストは下記。
これまた熱中し過ぎて、何度か、乗り越したこともあったなぁ。
電車の中って「逃げ場」がないので、集中モード(ゾーン)に入り易い。
ただ、帰りの電車では勉強する気になれなかったので、基本的にはボ~としていたように思う。
③iPadを活用
論文や講義レジュメなど、全ての資料をiPadに格納。
そして、iPadペンシルで資料に、どんどんメモを書いていく。
とにかく書く。
モヤモヤしていること、分かったこと、ポイントをどんどん書いていく。
自分の言葉で言い換える。
そうすると頭が整理出来る。いろんなことが繋がってくる。
④日曜日は出来るだけ休む
論文を一気に書き上げるときまで、日曜日は「朝40分の勉強」以外は、休息をとるようにしていた。
って言うか、平日は仕事でヘトヘトだし、土曜日は終日大学院なので、どこかで脳を休めてあげないと、かえって能率が落ちてしまう。
時々、日曜日も数学の勉強をしていた。40分のはずが、ゾーンに入ってしまって、ついつい2時間、3時間と続けてしまう。
そういう過ごし方を続けると、明らかに脳のパフォーマンスが落ちる。
ストレスが溜まり易くなる。
睡眠が浅くなる。集中力が落ちる。免疫機能も落ちて、風邪を引きやすくなる。
「うまく休む」ことも、脳と精神のパフォーマンスを高めるうえで無茶苦茶重要。
⑤音楽
朝と通勤電車の中で勉強するとき、バッハの「平均律」を聴いていた。
「集中モード」に入るのに役立ったような気がする。
★★★
結局、3年掛かりだったけど、無事、経済学修士の学位を取得出来た。
長期履修制度というのがあって、私は3年履修で申請していた。(申請しておくと授業料は2年間分しか発生しない)
上記の勉強法が合っていたのか結局、2年で単位<11科目>を取得(半分が「秀」半分が「優」)しただけではなく、修士論文も書き上げてしまっていた。
しかし私は3年履修で申請していたので、2年目は修士論文を受理してもらえなかった。
1年間、無駄に待つのもモッタイナイので結局、3年目にもう一つ論文を書くことが出来た。
3年目に書いた論文の方が明らかに内容が充実していた(と思った)ので、こちらを提出し、無事最終試験に合格することが出来た。
そのまま博士課程に進む道もあったのだが・・・
ちょっと疲れたというのもあったし、いろんな意味で私には「博士」は及ばないなぁということが分かったので「修士」で卒業することにした。
またいつかチャレンジするかも知れないけど。
★★★
大学院に行ったことで、良かったこと
経済学で学んだことが直接、仕事に役立つということはないけれど、計量経済学を通じて統計学を学ぶことが出来たことは、どこかで活きてくるように思う。
好奇心が強くなった。⇒ 読書がいっそう楽しくなった。そして、仕事が前よりも(少しだけ)面白くなった。
インプットとアウトプット(資料作成)のスピードが早くなった。
数学的思考とは何か
数学的思考とは何か?
どうしたら数学的思考を身に付けることが出来るのか?
そんなことを考えながら『天才の栄光と挫折』(文春文庫:藤原正彦)を読んだ。
この本は、下記の際立った天才数学者たちの列伝である。
アイザック・ニュートン、関孝和、エヴァリスト・ガロワ、
ウィリアム・ハミルトン、ソーニャ・コワレフスカヤ、
シュリニヴァーサ・ラマヌジャン、アラン・チューリング、
ヘルマン・ワイル、ワンドリュー・ワイルズ
これらの天才に共通しているのは、「おそるべき集中力」を持っている
ということ。集中して何をするのか?
「考える」のである。
粘着質なくらいに、ず~と、ず~と、考え続ける集中力がハンパじゃない。
ニュートンなんか、集中のあまりにゆで卵を作るつもりで懐中時計を
煮てしまう、といった逸話にこと欠かないらしい。
天才数学者は、みんながみんな早期のエリート教育を受けている訳では
ない。
むしろ、数学の勉強を始めた時期は遅いという印象。
ただ、数学勉強へのスイッチが入った後が、スゴイ。
何かに駆り立てられたように、数学の世界にヌメリ込む。おそるべき集中力をもって。
こういうところが、天才の天才ゆえんなのかなぁ。
テストで良い点を採りたいとか、試験に受かりたいとか、
そういったことが動機となっているのではなく、
「数学をする」そのものに魅せられてしまっている点。
私のような凡人が彼らのマネは到底、出来るものではないのは言うまでもないのだが、彼らの100分の1でもいいから、「数学的思考」なるものをしてみたい。
じゃ、どうすれば良いか? 何を(100分の1)マネすれば良いか?
①問いを設定する。
②その問いを根気良く考え続けて答えを見つける。
③上記①②を行きつ戻りつしながら、「本質」を発見する。
④上記①②③に没頭する(集中する)
数学を勉強する中で、問いを設定するセンスとか、深く考え続ける習慣とか、「本質」を見出す論理的思考力や美的感覚が養われるのかも知れない。
だが、思考の対象が数学でなくても(音楽でも哲学でも、仕事のことでも)、その対象について「問いの設定」と「根気」と「本質探究」と「没頭思考」を習慣づけることにより、「数学的思考」なるものが出来るような気がする。
そういうことにする。
(狙いは思考に磨きをかけることであって、数学者になることがゴールではないのだから)
★★★
この本の中に出てきた、アラン・チューリング。
彼は第二次世界大戦のときに、ドイツの暗号(エニグマ)を解き、イギリスを亡国から救った。
島国、イギリスに輸送される食物は、ことごとくドイツの潜水艦(Uボート)によって沈没され、イギリスの食料備蓄が「残り僅か1週間分」のところまで追い詰められたらしい。
彼がいなかったら、イギリスは負けていたと言われている。
イギリスが負けていた???
それって、世界史が大きく変わっていたということになるではないか・・・
たった一人の数学者の数学的思考が世界史を変えた、ということになる。
著者は言う。
多様で混沌とした現象の中から論理構造を見出し理解しようと、集中して考え続ける習性が、誰も予想しなかったほど役立ったのである。
問題「解決」能力は、人工知能が得意とするところ。
ただし、問題「設定」能力は人工知能の不得意とするところ。
(人工知能の「フレーム問題」)
ということを考えると、特に「①問いを設定する」という思考習性を身に着けたいと思う。凡人が無防備い③に走ると、脳がフリーズするか、ショートしてしまいそう。
★★★
数学的思考とは何か?
自らの感性の内側から発する(ワクワクするような)「問い」を発し、それについて(無理のない範囲で、楽しく)考えて「本質」に迫っていくこと。
そして、(失敗を恐れずに)自分なりに答えを出すこと。言語化してみること。
失敗も何も、私たちが発する「問い」に模範解答などないのだから。